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よーだの独り言 その1


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1.大人の隠れ家って、なんかいい響き♪

2.視聴率とは何ぞや

3.銭湯はトレンド?

4.Happy Xmas (War Is Over)  by John Lennon

5.北朝鮮帰還事業について

6.学校週五日制

7.鉄人28号の思い出〜横山光輝氏の訃報に接して

8.自由にモノを言えるということ

9.KISS!  

10.紅白歌合戦に思う  





   


  大人の隠れ家って、なんかいい響き♪  


 突然であるが、あなたは隠れ家というべき場所をお持ちだろうか?

 別に、そこは人里離れた山奥などでなくてもよい。仕事の途中でも上司に見つからない喫茶店とか、なじみのバーや居酒屋、あるいはイケナイ秘密のクラブ(という人はいるか?)、要は普段の自分から開放されて、ゆっくりくつろげる場所である。

 ただ、厳密に言えば完全に一人きりになれる空間というのは、なかなか難しい。特に都会においてはなおさらである。

 そこで、そんな空間を提供するサービスが出てきても不思議ではない。

 なんでも、東京でその「大人の隠れ家」が大人気なんだそうである。隠れ家というので、何だろうとと思ったら、飲食店のことらしい。店によっては、『隠れ家』なのに行列が出来るほどの人気とか。(ワケわからんな。)

 それは、誰も知らないような場所にあるわけではなく、(そりゃそうだろう。経営が成り立たん。)一般的には街中にあってもわりと静かで、他の客にわずらわされず、プライバシーが保てるような店を、そう呼ぶらしい。

 店内はというと、個室や仕切りが多く、照明が暗いのが特徴・・・・・といえば、何か思い出しませんか? ある程度年齢のいっているアナタ! (^◇^)

 そう、昔はやった「個室喫茶」そっくりではありませんか!

 ただ、よくよく聞くと、今はやっているものは、昔と違ってそんな“イカガワシイ”店ではないそうである。
 一日中、対人関係をはじめとして、さまざまなストレスにさらされる都会人の、心の避難所、オアシスだそうで、一例を紹介すると、ワンフロアの店にわざわざ2階を作り、屋根裏部屋のような天井の低い半個室がある。
 逆にこのような狭苦しい部屋の方が人気とか。

 まあ、確かにこの気持ちもわからんでもない。
 現に、管理人もどちらかというと、だだっ広い部屋よりも、狭苦しい部屋の方が落ち着く。一箇所に座ったままでちょっと手を伸ばせば、すべて事足りるのが理想である。(^^ゞ

 さて、なぜはやっているかということについて、学者先生曰く、現代の都会人にとっては、そのオンリーワン志向とあいまって、「自分のためだけの空間」を求める傾向が強いんだとか。

 まあ確かに、この「自分だけの空間」、「自分だけの時間」というのは、人間にとって、実はとても大事なことではないかとは思いますね。管理人も一日に一回は自分ひとりで静かに内省し、自らを高めています。(ウソ。)


 最近では、この「隠れ家」専門のガイドブックなども出て、やや過熱気味のようである。自ら「隠れ家」であることを前面に押し出してアピールする店も増えてきているとか。

 だけど、マスコミなどで、誰もが知っている「隠れ家」なんてなんか変じゃないかなぁ?


(2001.December)



 
   


  視聴率とは何ぞや  


 テレビの世界では、よく『視聴率』なる言葉が出てきます。

 たとえば、サッカーのワールドカップでも、どこぞの試合が驚異的な○○%!などと新聞に載っていたりします。でも「ふーんそうか」とあまり気に留めないで読み飛ばしてしまう人がほとんどですよね。

 では、みなさんはこれが「どのようなものか?」ということを正確にご存知でしょうか。スポーツ新聞などでは、よく「今週の視聴率ベスト20」なるものが載っていたりします。あれはどうやって調べているのか不思議に思ったことはありませんか?  そしてこの得体の知れない『視聴率』というものによって、テレビの世界が動いているのはよく知られた事実です。  
 で、管理人も視聴率のことが前から気になっていたので、ちょっと調べてみました。

 まず、定義からいってみましょうか。今回は「ビデオリサーチ社」のサイトを参考にさせていただきました。
 そもそも、視聴率とは、「視聴量の大きさを示すひとつの尺度」であり、「必ずしもテレビ番組そのものの価値や質を直接的に表すもの」ではなく、「世論調査と同じように、統計理論に基づいた標本調査」なのだそうです。
 わかりましたか?(^^ゞ

 対象世帯は、テレビ所有世帯から無作為(ランダム)に選びます。この手法は統計学の理論でいうところの「ランダムサンプリング(無作為抽出法)」といいます。
 実は視聴率には2種類あり、『世帯視聴率』と『個人視聴率』というのだそうです。普通世間一般で言う『視聴率』とは、このうちの『世帯視聴率』のことを指すのだそうです。ちなみにBSデジタルは、今のところ調査の対象にはなっていないそうです。(BSアナログは対象です。)
 
 さて、気になるその調査方法ですが、以下の3つの方法で調べているそうです。

1.機械を使って記録を転送するが、視聴の始めと終わりに人間がボタン入力する方法。
2.完全に人の手を煩わせずに、自動的にセンサーでデータが転送させる方法。
3.一週間単位で調査票に記入してもらう方法。(調査員が配布、記入する。)
 
 なお、ビデオリサーチでは、日本全国32の放送エリア内で、27地区・6,250世帯で調査を行っているそうです。ローテーションにより、2年ですべて入れ替わる仕組みで、対象世帯はどこなのか、完全に秘密だそうです。
 また、当然ながら、テレビ局関係者、病院、事務所、寮など一般家庭でないところは除外されます。

 まあ、思ったよりも厳密に調査しているなという感じですが(あたりまえですね。)、それでも抜き取り検査には変わりはないし、日本全体の世帯数から考えたら、調査対象の世帯はほんのわずかです。

 視聴率調査が、『ある程度』の視聴者の傾向を知ることはできるでしょうが、完全な視聴率の結果を知ることなど不可能な話なのです。ビデオリサーチ社のかたも仰っているように、あくまでも『ひとつの尺度』にすぎず、ましてや『番組そのものの価値や質を直接的に表すものではない』ということを、今一度確認する必要があると思うのですが。

 この『ひとつの尺度』にすぎないものを、テレビ局のほうで勝手に金科玉条のようにしてしまったことが、現在の悲喜劇につながっているような気がします。

 ましてや、今はライフスタイルの変化により、この調査の仕組みが妥当かどうかという問題もあります。

 例えば、どうしても見たい番組(例えばスポーツの実況生中継と教養番組)が同じ時間帯にあるとします。昔でしたら泣く泣くどちらかを選ぶか、何分かごとにチャンネルを切り替えるかしかありませんでした。
 しかし、今なら、ビデオに録画すればすむ話です。ほとんどの人は、リアルタイムに視聴することに価値があるスポーツ実況を見て、もうひとつの番組はあとでゆっくりビデオ録画のものを見るという方法をとるでしょう。

 でも、現在の調査方法ではこのビデオ録画で見た番組は、視聴率に反映されません。もしかしたら、そのスポーツ実況放送を見た人よりも、多くの人が見た可能性があるにもかかわらず、です。

 さらに、今後はテレビ以外の端末で(例えばパソコンなど)番組を見る人も多くなると思われます。まあ、そのときにはまた、調査の方法も変わってくるのでしょうが。

 いずれにせよ、調査の方法が無作為抽出であるかぎりは、参考にはなるにせよ、それを絶対視することはきわめて危険なことではないでしょうか。うまくやれば、政治目的のための世論操作にだって利用できるはずです。

 今の情報過多時代において大切なことは、僕たちひとりひとりが、常日頃から自分の頭で物事を考え情報を見分ける力をつけることだと思うのですが、いかがでしょうか?
 


(2002.July)



 
   


  銭湯はトレンド?  


 今、銭湯が癒しの空間として、再評価されているという。
 僕も銭湯に行かなくなって久しいが、子供の頃はずっと銭湯で、確かにあの雰囲気はなかなかいいものだったなぁ、という記憶がある。

 聞くところによると、近頃では銭湯ファンが、インターネットでサークルを作り、銭湯でOFF会を開いているというではないか。
 試しに、検索エンジンで「銭湯」とか「入浴」とかを検索してみたら、出るわ出るわ。
 ググッたら、2万1千件ヒットした。(笑)

 ちらちらと見てみたら、サークルらしきものに混じって、エッセイ関係のものも結構多い。それと、銭湯そのものや、組合が出しているサイトもある。
 その中で、「東京都浴場組合」というところのサイトがあり、入浴に際してのマナーなどが載っていたので、ちょっとのぞいてみることにした。

 どれどれ、『湯船にもぐらない、タオルを持ち込まない』。うん。これは昔から常識だね。『よく体を洗ってからお風呂に入ろう』。
この場合の“お風呂”は、湯船のことだね。これって、意外と大人でも守らない奴がいるんだよなぁ。

 で、次・・・『お風呂に入るときはパンツを脱ごう
 ・・・・・うん、そりゃそうだな・・・・・・って、な、なにぃ〜!?

 な、なんでそんなことを注意書きに書かねばならんのだ?
 今はそんなにパンツをはきながら銭湯に入るバカが多くなったのか?

 外国人向けの注意書きかと思ったが、どうも、最近の子供はパンツをはきながら入浴しようとするのが実際、いるらしいのだ。
 少し前、いまどきの子供達は、修学旅行で風呂に入るときに、みんな水着を着て入る、とか聞いたことがあったが、なげかわしい。

 あと、これは別のところだが、「庶民文化研究家」という某さんが、銭湯での入浴の「極意」というのをのたまわっておる。
 なんでも、知らない銭湯にいきなり一人ではいるには勇気がいるし、常連さんから『お前はだれだ?』みたいな視線をあびないために伝授するのだそうだ。
 今の銭湯は、そんなに閉鎖的になったのかいな?

 まあそれはおいといて、彼が言うには、まず入浴料金を、釣銭なしでピッタリ払うことが重要だそうだ。これをやると番台のおじさん(おばさん)から、『おっ、通だねぇ』と思われるらしい。
 いや、そんなこと思われなくても、こっちは客だぞ。釣銭ぐらいでいやな顔するな。

 と突っ込みながら次を読むと、脱衣所のロッカーは、胸の高さのあたりは避けねばいけないそうだ。常連客が使っていることが多いから、がその理由で、一番上か下の四隅を使うと問題ないそうだ。なんだそりゃ

 さらに、洗い場にもテリトリー(!)があるので、初心者は出入り口の風がスーッと入ってくるようなところを選んだ方が無難だとのこと。『ここは私の席!』といきなり言われることもあるそうだ。
 おい、いつから洗い場は指定席になった?

 さらには、「風呂上りには、ケースの中の飲み物を買って飲むことも忘れてはいけない」って、余計なお世話だ!
(でも、僕は飲むけど)(^^ゞ


 おいおい、いつから銭湯はこんな息苦しいところになったんだ?
 これじゃ癒されるどころか、ストレスがたまっちまうじゃないか!

 この「庶民文化研究家」さんは、絶対何か勘違いしてるって。もっとも世の中というのは得てして勘違いによって成り立っているところもあるのだが。


(2002.November)



 
   


  Happy Xmas (War Is Over)  by John Lennon  


 今年は不況だといいながら、やはりクリスマスになると、普段よりは街が賑わうようだ。
 ただ、僕はクリスマスだからと、特別にはしゃぐような気持ちはない。クリスチャンではないからであるが、かといってクリスマスにはしゃいでいる人たちを非難する気持ちもない。日本人として普通の感覚だと思うから。


 ここまで読んで、「はてな?」と思った人は、なかなか問題意識のある人だ。
 実際、クリスマスに日本人が騒ぐのを見て、眉をしかめる人も多い。クリスマスとはどういう意義ある日なのかを理解しようともせず、ただお祭りの部分だけに便乗して騒いでいる。あげくのはてにキリスト教を信じてもいないくせに、「かっこいいから」との理由だけでミサに出席する人もいる。
 このような人に限って、キリスト教を冒涜しているとの自覚も無しに、『荘厳な気分になれました』なんて言っている。
 ・・・・・などと、まあこんなところか。

 実は僕も、昔はそんな風に思っていたくちである。同じ日本人としてとても恥ずかしく思っていた。でも最近は、「これは別に恥ずかしいことではなく、日本人としては当然の感覚ではないか?」と思うようになってきたのである。

 理由を述べよう。
 日本人の宗教観は基本的に多神教をベースにした古神道にある。いわゆる八百万の神々である。それゆえ、古代から仏教を始めとした外来宗教が入ってきても、習合するなりして柔軟にそれを受け入れてきた。キリスト教ですら、初期の頃はかなり民衆の間で広まって行ったのだ。それが弾圧されたのは、あくまで政治的理由による。

 よく、「日本人は宗教に節操がない」、「日本人には宗教心が無いのではないか」といった論をみかけるが、それは一神教の側に立った偏見だと思う。たった一人の超越者(メシア)を敬うことだけが宗教ではない。日本人は、自然のあらゆること、草木のひとつひとつに神を見てきたのだ。一般的にこのような“アミニズム”は宗教の原始的な形で、いわば宗教としては洗練されていない、一段低いもののようなイメージがあるが、果たしてそうだろうか?
 一神教が原因で戦争やテロが起こっている世界の現状を見れば、一神教の方が優れているなんて誰が言えるだろうか?


 日本人の中にも、この一神教側からの偏見を真に受けて『僕は無宗教です』という人がいるが、それはとんでもない間違いだ。真に『無宗教』ならば、結婚式から葬式などのすべての行事を拒否しなくてはいけない。亡くなった人を悼んではいけないし、先祖を敬ってもいけない。極端な話、朝日が昇るのを見て心を動かされてもいけない。
 多神教の世界からすれば、それらはすべて、宗教心のひとつの形態になるからだ。
(ちなみに識者がよく指摘するところなのだが、外国人、特に欧米人には間違っても「無宗教です」と言ってはいけない。彼らにすれば、「無宗教」=「悪魔」なのだ。アメリカなどでの共産(唯物)主義アレルギーの理由はここにある)


 だから、ベースとしてこのような宗教観を持つ日本人にとって、家庭に神棚と仏壇が共存するのは何らおかしなことではない。同じように、日本人がクリスマスを“祝う”のも、おかしなことではない。信者の人にはお叱りをうけるかもしれないが、日本人にとって、キリストは数ある“神様”のうちの一人(正確には一柱か?)という感覚なのだ。
 みんなはっきり自覚してはいないかもしれないが、潜在意識の中にこの感覚は絶対あると思う。

 要は、「よくわからないが、外国の神様らしいから、ひとつ拝んでおこう」という感覚であろうか。しかし、これが(一神教である)キリスト教の側から見れば、不謹慎きわまりない、ということになるのだろう。

 最初にも述べたように、僕は信者でなくともクリスマスを祝ってよいと思っているが、自身がそうしないのは、キリスト教側の気持ちもまたわかるからである。

 でもまあ、かたいことを言わずとも、単純に人々が幸せな気持ちになれる行事があるというのは、いいことかもしれない。


(2002.December)



 
   


  北朝鮮帰還事業について  

 実際のところ、北朝鮮帰還事業が行われた当時の様子はどうだったのでしょうか?

 僕自身も当時の事をよく知らないので、勉強のために当時の新聞記事をもとにまとめてみました。
 参考として、当時の雰囲気がわかるような新聞記事もそのまま抜粋してみました。もちろん、新聞が伝える事は事実の一部であってもすべてではないでしょうし、地域差というものもあるでしょう。
 でも少なくとも、それはまぎれもなく当時の真実だと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 戦後、長い間懸案だった在日朝鮮人の北朝鮮への帰還は、昭和34年2月13日の閣議で、赤十字国際委員会が中に入ることを条件に、ようやく実現のはこびとなりました。
 それからもすんなりとは事業は進まず、ジュネーブで日朝両赤十字が交渉した帰還協定が8月13日カルカッタで調印をみるまで半年かかり、ようやく12月14日第一次船団で約千人が帰還、年内三回、約三千人が帰る見通しとなりました。

 そもそもこの北朝鮮帰還事業は、韓国から言わせると、「強制送還」だということで、当時民団などが、線路の上にすわりこむなど、強硬な反対運動をおしすすめました。
 韓国本国では、「強制送還」を非難し、国連に提訴するということで、国会が可決しました。そしてついには(帰還阻止のため)実力行使する、とまで告げてきたのです。

 韓国側は(帰還事業に対して)国際裁判所に提訴する動きもみせましたが、日本の外務省の立場としては「北朝鮮帰還は人道問題であり、その裁定はすでに赤十字国際委員の声明によって下っている」との立場から、応訴しない方針でした。
 ゆえに、韓国の提訴は事実上成立しなくなったのです。(提訴しても、相手国が応訴しないと成立しませんが、韓国は当時国際司法裁に加盟しておらず、日本に応訴の義務はありませんでした)
 北朝鮮帰還事業にはこのような背景があったのです。



(昭和34年12月5日の小・中学生向けの新聞記事)
 日本にいる北朝鮮の人たちの一部が近く故国に帰ります。秋田市M小学校三年三組M子さんも家族と一緒に帰ることになりました。クラスのお友だちはこのほどM子ちゃんサヨナラの会を開いて別れを惜しみました。
 秋田市生まれのM子さんは、たくさんのお友だちがいるのにお別れするのはとても悲しいと言いました。秋田を忘れないでくださいと、みんなで人形を贈り、ホタルの光を歌い、なごりをおしみました。そのあとでお菓子をたべながらたのしみ会にうつりました。
 M子さんは11日に秋田駅を立ち14日に新潟港から船に乗って北朝鮮に帰るのです。

(昭和34年12月10日の歓送会を伝える新聞記事)
 「帰る16人よ元気で」「秋田市で北朝鮮帰国者の歓送会」

 待ちに待った母国北朝鮮へ帰る人たちの歓送会が総連県支部の主催で九日午後四時半から秋田市労働会館で盛大に行なわれた。県からも福祉課長らが代表して出席し、盛んな歓送ぶりだった。
 送られるのは、三世帯十六名で、帰国問題をめぐる複雑な情勢などもあっていちまつの不安もつつみきれないといった表情もみられ、それでも心づくしの歓送に目をうるませていた。
 北朝鮮帰還の第一号船に乗船する八郎潟町一日市、朝鮮民報秋田県支局長S氏(37)一家六人は九日正午、一日市駅上り列車で、町民、小学生など多数の見送りを受けて出発した。
 同氏は日本に来てから約二十年、帰国を前に、長男Tくん(11)S子さん(9)K子さん(7)が通学していた一日市小学校に、柱時計三個と電蓄を贈り、学校では三人の送別会風景を録音したテープを記念に贈った。

(昭和34年12月15日の帰還事業問題の背景を伝える新聞記事)
 (北朝鮮)帰還問題が具体的に提起されたのは昭和31年、日赤が国際赤十字と連絡をとり、解決の方向を見出そうと動きだしてからだ。同32年、二月二十六日、赤十字国際委員会から「関係国の了解がつけば乗り出してもよい」との覚書が出された。


※新聞記事はすべて秋田魁新報社の新聞記事より抜粋。プライバシーを考慮して一部仮名としました。


(2003.August)



 
   


  学校週五日制  



 完全学校週五日制(以下、学校五日制)が実施されて、そろそろ一年半になろうとしている。
 ところがこれ、すこぶる親からの評判が悪い。過度の受験戦争の緩和と、子どもの「ゆとり」を目的に導入されたはずなのに、どういうことだろうか?

 親の批判は、まず「学力低下」の一言につきる。
 学校側はその声に抗しきれずに、土曜日に補習授業をやりはじめるところも出てくる始末。そうでないところは、少なくなった時間数で今までの内容を押し込めようとするから、子どもたちは今まで以上の詰め込み教育に悩ませられる。
 授業を進めることが優先されてしまうから、つまずいた子どもはその時点で取り残されてしまう。先生たちは先生たちで、時間が足りないと悲鳴をあげている。

 よかれと思ってやったであろう改革が、ことごとく裏目に出ている。これはなぜだろう。 

 学校五日制の導入を提言した中央教育審議会の答申には、「我々は学力の評価は、単なる知識の量の多少のみで行うべきでなく(略)変化の激しい社会を『生きる力』を身に付けているかどうかによってとらえるべきであると考える」とある。

 さらに、この『生きる力』は単に学校でだけで育成されるものではなく、学校以外での豊富な生活体験、社会・自然体験も重要である、という意味のことも述べている。

 僕はこれには素晴らしい理念だと思うし、もちろん賛同する。この指針は間違ってはいなかったと思うのだが、ではなぜ現在、こんなことになっているのだろうか。


 理由は、周りを見れば簡単にわかるが、中央教育審議会が期待していた「土曜日における子どもの社会学習」の環境ができてないからではないだろうか。もちろん地域差もあるだろうが、現在は昔のような地域の強い結びつきもないし、少子化で近所に同じ歳の子どももなかなかいない。毎土曜日、子どもを山や川へ連れていける親が、そういるとも思えない。

 キツイ言い方をすれば、中央教育審議会の答申には、「こうしなさい」という方針さえ打ち出せば、後は親や地域社会の方で適当にやってくれるのではないか、という無責任な態度が垣間見える。

 結局、いきなりゲタをあずけられた親たちは、どうしていいかわからない。それで、土曜日を有効に過ごすことが出来る子どもももちろんいる。しかし、何をしていいかわからない子ども(と親)もいる。結局タダの休日となってしまい、単に平日の授業時間だけが減ったということになってしまった。
 これをやるなら、その前に地域社会での(子どもたちの)受け入れ体制を整備するべきだったのだ。


 ところで、僕が昨年、一年ばかり教育現場にお邪魔させてもらったときに不思議に思ったのは、「総合学習」の存在だ。これは教科にとらわれない勉強をしようという趣旨で、いきおい社会学習がメインとなる。職場訪問をしたり、地域の自然探索、地域の住民との交流、逆に色々な人を学校に招いての後援会。etc。

 しかし、まてよ。
これらのことは、それこそ中央教育審議会の答申にあった、『生きる力』を身に付けるということに重なる部分もあるのではないだろうか?だったら、土曜日を休みにした意味はなくなるし、土曜日を休みした意義を考えるなら、一般教科の時間を潰して行うこの「総合学習」というのは、いらないのではなかろうか。

 同じような事を二重にやって、授業時間を少なくしている。こんなバカな話はない、としか思えないのだが、これは単なる僕の誤解なんだろうか。

思うに、どうせ、今の地域社会、家庭において「学習の場」が期待できないのであれば、これをそれのかわりに、というか一本化したほうが良いような気がする。

 すなわち土曜日の休みをやめてそれをすべて「総合学習」の時間にあてる。平日は昔のようにすべて一般教科の学習にあてる。もちろん、先生たちに負担はかかるだろうが、そこは地域の住民との強力で乗り切る。これは、特に都会で失われつつある地域と学校との結びつきを復活させることにもなる。それはひいては学校への不法侵入者などへの対策にもなると思うのだが。
 まああくまでも素人考えですが。


(2003.September)



   


  鉄人28号の思い出〜横山光輝氏の訃報に接して

  
 ご存知のように、さる4月15日、火事によるやけどで、漫画家の横山光輝さんがなくなられた。 心からご冥福をお祈りしたい。
 
 日記にも書いているが、僕にとって横山光輝といえば、後期の歴史ものを描いていた作家ではない。
 
 それは『バビル2世』であり、『魔法使いサリー』であり、『仮面の忍者赤影』であり、なんといっても 『鉄人28号』の横山光輝なのだ。
 
  『鉄人28号』は、雑誌「少年」に昭和31年の7月号から昭和41年の5月号まで10年間にわたり 掲載された。昭和35年には日本テレビで実写版が放送され、昭和38年にはフジテレビでアニメ化さ れている。
 その後も2回ほどリメイクされて、今年の4月からはテレビ東京で最新のリメイク版が放送 開始、さらには年内に実写版で映画が公開される予定であった。

 特に、この劇場版については、ぜひともご本人の感想を聞いてみたかった。どんな思いをもたれただろうか。
 
 
 さて、このように、長い年月に渡って愛されてきた鉄人だが、個人的にはグリコがスポンサーだった、初回のテレビアニメの印象が強い。主題歌が、例の『夜の街に ガォ〜!』というやつだ。ただ、放映の年を考えると、もしかしたら再放送で見ていたのかもしれな い。
 漫画の方も、たぶん連載中というより、後から出た光文社の新刊本で読んでいたような気がする。
 
 実写版は、もういい歳になってからレンタルビデオで見たのだが、かなり原作に忠実だった。つまり、 主人公なのに、なかなか鉄人が登場しない(笑)。 (ちなみに、雑誌連載時に鉄人が“初登場”したのは、なんと連載開始から4ヶ月後!)

 同時期に人気を博した漫画&アニメとして、『鉄腕アトム』があるが、同じロボットものながら、その設定は対照的だ。かたや、人間と同じ心を持つ人間そっくりのロボット。かたや、操縦する者によって、悪にも善にもなってしまうロボット。
 だが対照的だからこそ、両方とも同時期に人気漫画たりえたのかもしれない。
 
 
 ところで、この鉄人にもいろいろトリビア的なエピソードがある。
 
 そもそも鉄人28号の原型は、 「フランケンシュタインの映画」+「西洋の騎士の鎧」+「街を瓦礫にした爆撃機B29」から生まれたのだという。リモコンで操縦する鉄人のアイディアは、映画で見たフランケンシュタインが笛で操られていたことから、想を得たのだとか。
 
  最初は『鋼鉄人間28号』というタイトルで貸し本屋専門の出版社向けに描いていたのだが、ひょんなことから、「少年」に連載されることになったのだそうだ。
 
  最初は悪人に操られ、暴れまわる悪のロボットという設定で、少年探偵・金田正太郎が立ち向かうというストーリ ーだったのだが、連載中に人気が出てしまったため、正義のロボットに設定を変えたという。
 (ちなみに、これは有名だろうが、金田正太郎の名前は、当時国鉄スワローズの人気投手だった金田正一 にあやかっている)
 

 こうして鉄人28号は絶大な人気を得ていくが、連載が10年も続くと、世の中も変わってくる。おまけに、当時はいわゆる高度成長期で、恐ろしい勢 いで日本の社会が変化していった時期でもあった。
 そして、作者が『鉄人はもう古いのではないか』とふと思ったとき、もう連載を続けていくことが出来 なくなってしまったのだという。
 
 だが、僕は鉄人のアナクロ的な部分が大好きだったし、逆にそれが長い間人々に愛され続けた理由ではないだろうかとも思っている。
 確かに鉄人28号は、あの時代だからこそ生まれたものだろうが、それが古いからといって忘れ去られることなく、平成の今の時代に至るまで人気を保っているという事実は、感慨深いものがある。
 

(ここでのエピソードは、1989年に光文社文庫から出た「少年傑作集 第2巻」に掲載された横山光輝氏ご本人のエッセイ「鉄人28号とわたし」から抜粋し、まとめてみました)

(2004.April)




   


  自由にモノを言えるということ


 自由にモノを言えるということはたぶん、かけがえもなく大切なことなのだ。
 
 普段、当たり前のように思いがちだが、世界の中には自分の思っていることをストレートに表現できない国が、まだまだたくさんある。

 ただ、人間は共同体(社会)を作って生活しているわけだから、その社会において「言っては好ましくない事」というのは、当然、その文化の中で発生してくる。これが「タブー」というやつだ。

 それは政治的なことから、隣近所の対人関係に至るまで実に幅が広い。 それが発生する事は致し方ないことであり、かつ、必要な場合もあると思うのだが、それでもなるべくタブーの少ない社会の方が僕は好きだ。

  人間の考えというのはまさに十人十色であり、明らかに他人や社会に害をなす事(つまり共同体そのものを否定するような事)でなければ、その意見を尊重する社会であって欲しい。 別にその人の意見に反対であっていいのだ。

 ただ、反対であっても、その人の意見を、「意見として存在する」ということを認めてくれればいい。尊重してくれればいい。そして、それに対して論理的に反駁すればいいのだ。それが、本当の民主主義であると思う。

  ゆえに、一番嫌いなのは、自分(たち)だけが絶対正しいと思い込み、異なる意見を持つものに対して、「異なる意見」があるということすら認めないという人たちだ。

 自分の主義主張を理想として行動するのは結構だが、もうちょっと他に対して寛容であって欲しいと願う。特に(精神的なものも含めて)暴力的な行動に出て、異なる意見を封殺するなんて、もってのほかだ。


 ・・・・・てなことを、今回のイラク人質事件の流れを見てて思いました。

 一部の人たちを見て思ったのではありません。 マスコミを始め、当事者全員にそう思ったのです。政府にも、被害者の人たちにも、被害者のご家族に中傷・誹謗した人たちにも、被害者のご家族の一部の人にも、そのバックにいる組織の人たちにも、日本中の人たちに、そして世界中の人たちにも。

 もちろん自分にもね。

(2004.May)





   


  KISS!  


 今週はゴールデンウィークのせいか、面白い特番が目に付いた。

 深夜にやっている、NHKアーカイブスで、今度は1977年にヤングミュージックショー(懐かしい!)でやったKISSのライブをやっていた。これ、昔見たなぁ〜。
 しかし、このKISSを取り上げるのに、いつもと同じキャスターのおばさん(失礼)がやってるもんだから、ミョーな違和感が(笑)。

 この年の数年前ぐらいに、いわゆる“キッチュ”なグラムロックが大流行したが、ここまで徹底したバンドはなかったので、かなりインパクトがあった。
 何か、覆面レスラーに合い通じるものがあって、わくわくしたもんです・・・って、そんなこと考えたの俺ぐらいか。^^;

 ところで、番組で持ち上げているのは当然だとしても、ネット上でもKISS最高!みたいな言われ方をしていた。けど、僕の記憶では、当時イロモノ扱いされていて、ファン以外には音楽的にはあまり評価が高くなかったような気がするのだが。
 まあ、こんな現象はいつものことだけど。

  ただ、今聞くと、確かにシンプルでいい音出してるなと思う。見た目の派手なメイクが逆に仇になって、音楽面が不当に評価されてしまったのだろうか。

 そういう僕も、実は当時、音楽的にはそれほどいいと思わなかったし、あんまり夢中にもならなかった。レコード買うこともなかったし。まあこれは個人の感覚だからしょうがないか。でももう5歳ぐらい若かったら、夢中になっていたような気もする。

  パフォーマンスは今見ても確かに面白い。ジーン・シモンズお得意の火を噴いたり、ギター燃やしたり・・・・・だけど、こんなこと今、武道館でやったら、消防法の関係でマズイのでは?^^;


 それにしても、これ、当時の放送事情のために、1回だけ再放送された後は放送されず(というか出来ずに)「幻の映像」と言われてたのか。知らんかった。

(2004.May)




   


  紅白歌合戦に思う  


 2004年の紅白歌合戦における視聴率が過去最低だった、と話題になっている。

 実は僕も見なかったんだが。^^;
 ただ、マツケンサンバだけは見たいと思っていたのだが、見逃してしまった。 (悲

 僕が見なかった理由は、単純に、裏で見たい番組があったのと、見たい歌手・聞きたい歌がなかったから。 別に歌そのものが嫌いというわけじゃないんだけどね。


 子どもの頃は(どこの家庭でもそうだったろうけど)、大晦日の夜は家族そろって『紅白歌合戦』を見るというのが定番で、その時間、他の番組を見るなんて考えられなかったものだ。
 また、実際見ていて面白かったものだが、なぜ“紅白離れ”が起きてしまったのか?

 ひとつは、昔のように、老若男女、誰もが知っているという世代を超えたヒット曲が出にくくなっていることだろう。

 一見、売れていて誰もが知っているような歌手でも、世代が違うと誰も知らなかったりする。つまり、売れているとは言っても、ごく狭い世代の間だけで売れているにすぎないのだ。 これはレコード会社にも責任があると思う。
 手っ取り早くCDを売ろうとして、一番可処分所得の多い世代向けだけに目を向けた。その結果、お手軽で、薄っぺらな音楽が蔓延することとなってしまった。

 もうひとつは娯楽の種類が増え、趣味も多様化して、『大晦日に紅白を見る』以外の選択肢が増えたことだろう。

 だが、こればかりは時代の流れで、NHKががんばっても、どうなるものでもないだろう。


  以上のことを考えるに、これから紅白歌合戦の視聴率が下がることはあっても、上がることは無いだろうと思われる。
 
  もし上がるとすれば、それは時代に即して、番組の内容を大幅に変えた時だと思う。(この内容を変えるということは、裏目に出るリスクも相当あるので、なかなか踏み切れないだろうが)

 ただ、何のかんの言っても、視聴率が40%近くあるというのは、やはりすごいことだと思うのだけれどもねぇ。 全体主義国家じゃあるまいし、今までの視聴率が異常だったと考えればよいのでは?

(2005.jan)






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